塀と雨戸は嫌い

三十五年ほど前だったか、初めて和光市の親戚に泊まって驚いたのは、風も吹かぬまったりとした夕暮れ時に、全ての窓の雨戸を締めてしまったこと。それは暗くなリ始めたら夕食の用意をし、部屋に灯をつける、というような日常的に繰り返される一連の作業の契機のようだった。1階を閉めたその足で、義理の叔母さんは階段を登り、すべての2階部屋の雨戸も淡々と締め切ってゆく。部屋はその度に真っ暗→蛍光灯の点灯→新たな部屋の登場、という状況変化を繰り返す。まさにシールドされた感一杯な部屋の出現で、とても新鮮な感覚だった。

雨戸の何たるかは知ってるつもりだった。仙台の学生時代に暮らした平屋の借家で、初めて実物を拝見。戸袋から出して、窓の外レールを行ったり来たりさせてみたのだから、構造は理解している。小説の中に登場する程度に雨戸の機能だって知っていた。のだが、毎日使うものだとは思い至らなかった。昔ながらの吹きガラス一枚で構成された窓が破られてしまうほどの暴風、豪雨によってそこここと漏れてくる水の侵入を防ぐための災害防御用建具としか捉えていなかったのだ。

貧乏借家は4軒で共有する庭があり、そこに面した縁側は2間の開口を4枚の引き窓で構成していた(極安家賃の割になかなか風流な作り)。片隅にさくら咲く庭は6mx4mほどの極小空間だったが、巨大なウシガエル安住の地である。5月になれば、テント布で製作した重い鯉のぼりを庭いっぱいにぶら下げて、住人達の友人も呼んで自主的宴会を催した。強風など吹き込むはずもなく、ガラス戸のねじ込み式鍵を閉めたら、あとは白いカーテンを引いて、(みなさま、おやすみなさい)、という暮らし。なので、我が借家の雨戸は、住んでいた4年間というもの、構造を調査した時以外、戸袋から引っ張り出したことはなかった。

それに引き換え、親戚が住む和光南大和の2階建独立家屋。締め切られた雨戸のせいで、外の気配はかき消される。真っ暗になってしまった室内。こんな不穏な状態で毎晩を過ごす和光親戚人間たちを訝った。何故そこまで外界との通信を閉ざすのかと。住宅の密集するこの地域では、夜な夜な邪悪な(ダークエネルギーとか!?)が、蔓延ってるのだろうか?そいつの正体を見さえしなければ、人類は無事に生きていける、ということか?
ひっそりとした室内を寒々と照らす蛍光灯。星もなければ月もない、外を歩く人と犬の足音もほぼ聞こえない。壁だらけの世界。あぁ~嫌だ嫌だと驚くとともに、その家族の「異常さ」に辟易してしまった(当時の話を再構成したもので、現在の状況を示すものではない)。いつ朝になるのか、分からんじゃないか!!明日はどっちだ。

その後内地暮らしが長くなるに従い、「どの家でも夕闇が迫れば雨戸を閉める(落とす)」という風習は、メージャーなんだということが分かってきた。とはいえ、最初に感じた(外界との意図的隔絶)への不信と不安は募るばかり。

(外界との意図的隔絶)のための部材は、雨戸だけではない。第2弾は「塀(あるいは柵)」。
和光南大和の2階建独立家屋の敷地境界には、その境界線上に沿って、コンクリブロックで作られた1.5mほどの塀があった。お隣の家にも並行して「独立な」塀がある。塀と家屋の間の一面には狭いながらも庭がある。しかし残りの3面は50cmに充たない隙間があるだけ。お隣も同じ、その隣も同じ。複雑な作りの塀がひしめき、道路に面したすべての家屋がほぼ同様な塀で小刻みに分け隔てられていた。敷地境界はもはや動かしようがないのだから、壁なしでもいいんじゃないのか?どうしてもというなら、共有の壁ひとつで互いの所有権は、明確にできると思うのだが・・。

朝霞市内の住宅地ともなれば、周辺は2階建独立家屋の詰め合わせ。その一角のアパートに間借りし始めて四年。東西に伸びるバス通りと裏通りの間、約40m幅の帯状の土地に、2~5、6軒の家屋が多少でこぼこしながらも縦に並ぶ。驚くべきは南大和より歴史の古いこの地区においても、(外界との意図的隔絶)の徹底が等しく実現されていること。またしても家屋ごとにその敷地境界ぴったりの位置に塀が張り巡らされている。塀同士の隙間は10cmに満たない!! 数軒の敷地を縦に縦断して通りに抜ける、などという行為は顰蹙もの、いや(塀があろうがなかろうが)れっきとした違法侵入。そんな野蛮行動をさせないためにこそ塀がある。微細に区画された「私の土地」は、「私の家」同様に他人を強烈に隔絶する力を有しなくてはならないようなのだ。所有の定義をビジュアル化した塀は、擁壁であり、城壁でもあり、外形を変えながらも人類の闘争の歴史に常に現れる。城壁都市の究極ミニチュア版としての現代の町並みを捉えてみると、外からの侵入を個人レベルで拒否する社会、ということなのかもしれない。指摘するまでもないが、社会の「構成員」としての意識は育ちにくい町並みとも言えそうだ。
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ちなみに仙台貧乏借家には塀がなかった。おかげで借家人同士は仲が良く、出所来歴にこだわらない付き合いが出来たのだ、と(朱に交われば赤くなる的結論を)掲げておきたい。その後移り住んだ所沢の平屋の借家にも塀はなかった。外から見ると、平たい敷地に丸見えの庭付き平屋住宅が(所沢では2件連なって)並んでいる。貸家にわざわざ塀を設けてやるような大家はいない、ってことか?

塀と雨戸が好きになれない理由は単純。私が育った北海道の標準的家屋に雨戸はなく、塀もなかったからだ(この写真は、北海道の真ん中に位置する秩父別町の今を伝える北海道ファンマガジンからの転載)。
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道路を構成する平面の延長上に、ニョキニョキと家が建てられている様がわかる。道路と家の間には、家の外壁しかない。私有地の境界は?どこまで入ると不法なの?という情景だ。
なぜなのか。間接的な理由のひとつはわかりやすい。北海道(特に周辺都市住民の平均的暮らし)は貧しく、外界防備のためではあれ、暮らしに絶対必要とはいえそうもない雨戸も塀も作る財力がなかったから。冬を過ごすには雨・風・雪を防ぐ建物が最も重要で、さらに屋内の熱を逃がさない家屋構造の改良が次に切望されていたはず。雨戸や塀は贅沢部材だったのだろう。
そのことは那珂湊の海側に広がる(おもに)漁業労働者の家並みからも理解される。
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狩猟に励む多くの人々にとって、家はその日その日の暮らしの拠点以上のものにはなりにくかったのじゃなかろうか?素朴な作りの木造家屋には、塀がなく、雨戸もない。通りの中央には、各家庭の炊事場などからの排水を集める下水路が、後付けで設えられた歴史も見える。

もう少し積極的な理由としては、雪国家屋では寒さ対策と雪対策が重要で、その観点から見たとき、塀は二次災害の温床であり、雨戸は凍りついて不便極まりない代物でしかない。(私が知る五十年ほど)昔の家屋では、窓を雪から守り防寒を強化するため、外側にビニールを貼り付けたのであって、雨戸設置はありえない選択だった。断熱・防犯という高機能多重ガラスサッシが発明された現代ではビニール張りは不要だが、機能がだぶる雨戸もやはり必要ない。

その結果「北海道の家は開放的♪」という半分正しく、半分嘘っぽい言説が生まれた。確かに先に述べたように雨戸なし住居で育った私は、夕方に真っ暗闇となる室内より、外界の明るさ(暗さ)のわかる環境が好きだし、隣の家との間をくぐり抜けて、さらにその隣の家に到達できる環境が好きだ。現代都会人的防犯意識(??)が低いのかもしれない。室蘭市周辺の塀なし・塀あり住宅を論じた論文(真境名, 日本建築学会報告集、Vol. 22, No. 50, (2016)219-224)でも、塀なし家屋の居住者の防犯意識の低さが指摘されている。対極として、室蘭の塀あり家屋住人は防犯意識が高いのか、というとむしろ敷地内景観の一部という意識が高いのだそうだ。「防犯」が想起させるセキュリティのイメージが異なっているのかもしれない。

内地でも、開放された空間、共有された住環境への憧れとして、塀を取っ払ったことによるメリットが、「輸入住宅村」に関する報告で述べられている(竹田ほか、都市住宅学19号(1997)222-230)。そこでは、住宅村全体で生み出すべき防犯が議論されている。個々の家屋から塀を取っ払って「オープンな前庭」を作ったことで、公と私の中間的領域(それが私有地であったとしても)が生み出され、そこを起点にコミュニケーションが活発化され防犯性も強化された、というわけだ。とはいえ「輸入住宅村」意識が生まれた以上、その「外」に対する強い排他意識も助長してしまったんだそうだ。これは城壁都市の論理だ。所有地に由来する「仲間」を定義したので、それ以外が敵になる。

内地型の敷地いっぱいに設けられた塀には、明らかに「第三者の違法侵入を1mmたりとも拒絶する」という強い意志が含まれている。塀の高さが低くしかも開口率の高い塀(柵)であっても、わざわざ敷地周囲を取り囲ませるのは、所有権の明示にほかならない。それではなぜ、そのような危機管理意識が北海道の住環境に育ちにくいのか?先に述べたように、高機能な北海道家屋であれば、窓にビニールを張る必要はない。さらに急斜面をつけて屋根の雪を落とす必要のあったトタン屋根は強度の強い平板構造の屋根に置き換わった。家の境界に落雪による雪は積もらないのである。今こそ「おしゃれに安全・安心を提供する」雨戸と塀で武装したっていいのじゃないか??

私は、現代になっても雨戸と塀の流行に至らない原因の一つが、アイヌなどの先住民を除く内地からの北海道居住者の暮らしの変遷史、たかだか百二十年ほどの移民の歴史にあるのじゃないのか、と想像している。つまり、多くの北海道住民には、植民者としての歴史観が今も残っており、同一地域・地区に(数百年の??)長きにわたり営まれてきた「家」の記憶を受け継ぐ内地人に比べて、住む土地と家に対する執着が薄いのではないか。奪われたくないと思うアイテムのなかに、土地や住居に由来するものがが少ない。雨戸や塀に対する私自身の違和感の原因も、そのような偏在を嫌う感覚だとすると、結構すっきりとする。

北海道を侵略した和人は、かの島においては最終的に一大集団をなしていくわけだが、内地から見れば、あるいは広大な北海道から見れば、もちろん少数の集団に過ぎず、影響も限定的な生活者達だった。その集団の暮らしは、今でもその一部は冒険者・開拓者のそれであって、住み着いた土地の無名性が、彼らとその子孫にボヘミアン的要素を植え付けてきたのだとしても、さほど嘘ではなかろう。今を共にする家族は守らなければいけないが、そのことと住処とした土地を守ることとは同等じゃないのだと。

あまり類型化して議論しても仕方のない点ではあるが、内地人からみて「さっぱりとした性格の」(悪く言えば「文化程度の低い」)北海道人というステレオタイプも、多かれ少なかれ移民であった我々の祖先が辿った歴史の記憶が、様々なメディアを通して、ネガティブな記憶として定着し、内地の人々の中で受け継がれているせいなんじゃなかろうか?
子供の結婚に際して、北海道出身となれば(アイヌか内地人由来かなどと)調査したがる風習があるのだから、内地人として暮らし続けてきた多くの人々の「防犯意識」は極めて高く、狭量なものへと絡め取られてきた。内地人同士の大いなる疑心暗鬼と絶えざる差別・選別への要求。それは「抑止」を叫んで戦争を準備する「国防」意識とどこかで繋がってしまう「防犯意識」なのかもしれない。


これに関連する現代の言葉は、「帰還困難地域」と「帰宅困難者」。そこにある塀も雨戸も汚染されている。

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