塀と雨戸は嫌い(その2:藤森照信氏のエッセイ)

雨ばかりが続き、とかく日照量の足りない最近は、インドアの楽しみが増えてしまう。面白い本も、その一つ。

少し前に塀と雨戸に抱いてきた違和感について、色々書いたことがあった

その後、同様なことを感じてる人はかなりいて、しかもその中には「建築学」を生業にしてる方もいると知り、浮かぶ瀬はあるものだと喜んだ。その本が、藤森照信、「天下無双の建築学入門」ちくま文庫。塀については、ほぼ同じ反感を抱いてる。論考はもっと穿っていて、サラリーマン的惰性の末、戦いの亡き世となった今にあっても、脆弱で無機能なコンクリート塀が生き残ってしまってるだけだ、と喝破する。事実、自らの塀なし「タンポポ・ハウス」は、周辺住宅地に好影響を与えつつあるのだとも。道向こうのSさんは、立派な大谷石の塀を崩して開放的空間の出現に協力してくれたのだとか。

とはいえ、この人の雨戸嫌いは、建築物の美的外観を破壊するものとしての雨戸(+戸袋)のことだったりするので、若干(どころか、かなり)視点が異なる気もするが。現代の防犯ペアガラスを持ってすれば、台風にだって「雨戸」以上に耐えられる、というのが私の思い。

もとは出版社雑誌の寄稿エッセイだったり、建設会社の社内報に連載したエッセイで構成されたこの本は、建築にまつわる種々雑多な要素の「雑合」となっている。古代の建築術に見られる「基礎と土台」、「茅葺き」や「芝棟」などなど。現代に引き継がれている「戸」、「床」、「台所」、「便所」、「風呂」などなど。その背景にある住環境意識の変遷とともに語られる39篇(+おまけ)は、路上観察学会の発足者だけあって、語り口も楽しく、面白い。
建築要素の歴史と機能やお互いの連携がひしめき合い、藤森氏の美味しい味付けとなっているのだから、無論「雑合」というよりは建築学の「総合」を示すことに成功してるのだろう。

この本の中で、敗戦後の建物難の時代に、家における地位を画期的に高めた「台所」の歴史が帰されている。浜口ミホ氏によるステンレス流し台の導入に始まる、ダイニングキッチンという部屋割り概念の確立。DKが居住面積の小さな日本で生まれた言葉だったことは知らなかった。家族団らんにおける女性の地位向上は、ここが誕生日なのだ。しかもサラリーマン家族という父親+母親+子供というミニマム家族像が生まれていったのもこのとき。

件の藤森エッセイ集には(多分小規模な)家族像から見た、樹上生活や芝棟、ベランダ、庭、暖房などの記述が見られる。戸建住宅を主な相手としてるからだろうか。集団生活者のための建築、必要な空間についての話も読んでみたい。長屋文化とはどのようなものだったか?曲り家における主人家族と使用人家族の生活上の分割は?今どきシェアハウスに必要な共同空間は、どのような変遷をたどり、どこへいくのだろうか?ゆるく結合した人間の暮らしの歴史には、サラリーマンが増えた現代の暮らしの歴史より、はるかな知恵と広がりがあるような気がする。賃金労働者だって活用できる機能と文化があるのじゃないか?

そうそう、ずっ〜と昔のブログに載せた名古屋の都市建設の歴史を解釈した本(著者は、B. Shelton)の読後感にも、似たような疑問を載せた。「町」を中心に描かれる日本の地図と、「道」を中心に描かれるヨーロッパの地図の違いをきっかけに、中庭のある「長屋」文化の現代的必要性を見出したShelton。パッチワーク化した都会生活者を支える建築手法は、長屋にある。親族ではなく他人によって形成された家族、ゆるく結びついた隣人同士の生活には、その知恵が引き継がれてるし、これからも大事な生活要素になるのだと思う。

この間、NHK深夜にやっていた「長屋家族」編集の裏にも、そのようなちょっとした危機意識があるのだろうとの推察は、あまりに手前味噌だろうか??

さいごに出産+育児+老後+埋葬という人間のライフサイクルを軸にした建築学も、読んでみたい。そのうち、考えてみようっと。

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